代表メッセージ

テニスは、試合をするとその人の「素性」が現われます。
それは心の「想い」が身体の動きに変わるためです。
したがって、身体の動きを変えるのではなく、選手の「心」を変えると、格段に選手のレベルは上がります。
大切なのはたくさんの練習時間をこなすことではなく、選手自身が「コツ」を見つけることにあります。「コツ」を見つけられる選手は、何をさせてもそれを適用するので「何に集中するか」を自分で選択できるようになります。結果、目的と目標を自分で設定できるようになります。
私は、これをテニス選手やアスリートだけでなく、企業で働く人たちに提供できれば、もっと楽に自由に仕事ができる人財が育成できるのではないかと考えていました。
メンタル面のレベルアップを図ることができれば、仕事人としてだけでなく、自分の人生のストーリーを描き、未来の自分を切り開けるようになります。
私は、この志事を通じて、多くの企業で働く人々が、明るく元気に楽しく笑顔で人生を歩んでいけるよう、レベルアップのサポートさせていただきます。

代表 西村信人

西村信人(にしむらのぶと)

 昭和46年3月2日、大阪府豊能郡で放送会社に勤務する父、アナウンサーだった母から生まれる。

 錦織圭が71年ぶりの快挙を成し遂げるその71年前、1937年全米選手権(USオープン)で4回戦、最高ランキング世界8位の山岸二郎を大叔父に持つ家系だったのもあり、小学校2年生でラケットを持つ。当時は木製のラケットで、重かったため、思うように振り回せず、1度テニスから離れる。4年生のころ、ビヨン・ボルグやジミー・コナーズといったダブルハンドの選手が一世を風靡した。父の誘いでフォアハンド、バックハンド共にダブルハンドで再びテニスを始める。そのダブルハンドが功を奏し、ラリーが出来るようになり、テニスの楽しさに触れる。週に2度、父に付いて行き、家族会員のテニスクラブで会員さんにダブルスをして遊んでもらい、ゲームの楽しさを学ぶ。


 中学校になり、当時梅田の貨物線の線路横にあったグリーンハウステニススクールで、恩師でもあり、現在の師である長谷川一彌コーチと出会う。両方ダブルハンドだった私を見て、シングルハンドに比べてリーチが狭く、人一倍走らなければならないハンディキャップがあるはずの私。ゲーム性や視点、知恵とコツを教わる。習って3か月で今まで試合に出ても勝てなかったのがベスト8にまで残れるように。1年半教わり、大阪商業高校(現大商学園)に入学する。「ボールを見る」「工夫する」「気づき方」の長谷川コーチの教えを繰り返した。3年の春、大阪ランキング6位、関西ランキング9位でウィンブルドンジュニア東京予選大会に出場。その後、日本体育大学体育学部社会体育学科へ入学。学友会硬式庭球部で4年間。レギュラーの1年で膝の手術、2年で低血糖症、3年で目にボールが当たり、怪我が多く、結果が出せず、3回生後半から引退まで主務を務める。


 卒業後はテニスに関わった仕事に就きたかったのもあり、日体大の春合宿先の株式会社伊豆急リゾート、ルネッサ稲取高原に入社。総額400万円のJOPランキング大会、エビアンオープンのスタッフを務める。7年務めたが、バブル崩壊のあおりで、リゾートホテルロブィングに入社。ロブィングオープンの運営、トーナメントレフェリー、スクールではヘッドコーチを10年務める。「どうして同じアドバイスでも、できる人と、できない人がいるのだろう?」「もっとスッキリした声掛けがあるはず」をずっと疑問に思いながら自分がどうして上達したのか?長谷川コーチから何を教わってきたのか?と、自問自答の毎日を送る。すると、SNSで再び恩師長谷川一彌先生と25年ぶりに感動の再会、現在も大脳生理学、量子力学、宇宙法則など、自然法則に適った運動系プログラムを継承するため勉強中。現在に至る。

大叔父「山岸二郎」と(山岸二郎 Wikipedia

私のテニスを始めたきっかけは、父の叔父、私にとっては大叔父が昭和34年頃、戦前に日本が強かった時代の名選手でした。世界ランキング最高7位。かつてはウィンブルドンで第一シードからマッチポイントを奪い、惜敗したエピソードを聞いた父が、自分にもその血が流れていると思い、40代からテニスを始めました。
しかし、世界を目指すにはあまりにも遅すぎる現実に、私にテニスを勧め、未来を託したのが私が小学2年生の時でした。
現代で言う所のフェデラーや、ナダル、ジョコビッチのような大スターが身近に存在していた事になります。
その大叔父が当時は毎年、昔の名選手だけを集めたオールドマスターズが兵庫県宝塚市で開催されており、神奈川県逗子市に住んでいた大叔父が、その時だけ大阪の私の家に泊まり、大会に出場していました。
前々日に大阪に来て、1日練習。
その練習について行って、打たせてもらいました。
当時75歳だった大叔父ですが、バックハンドのスライスと、ドロップショットの名手で、スライスは重たくてラケットを弾かれる感じで、返せなかったのを覚えています。
夜には昔、活躍した時の話を聞かせてくれました。

信人

どうやって上手くなったの?

山岸二郎

昔は空襲で壁打ち出来る壁が無かったんだ。広いコートもないしね。

信人

じゃ、どうやって練習したの?

山岸二郎

仕方がないから石垣に向かってボールを打つんだよ。

信人

(子供の僕でも考えただけでも難しい事です)
石垣に打ったらどこに跳ねるか分からないから練習にならないよ〜。

山岸二郎

だからいいのさ。始めは取れないけど、取ろうと思うと工夫するもんでね!ボールが石垣に当たる瞬間の石の面を見るようにすると取れるんだよ。

信人

でも、何回かは頑張れそうだけど、すぐ疲れちゃうね!

山岸二郎

そうなんだよ疲れちゃう。だから疲れないように工夫するんだ。

信人

どうやって?

山岸二郎

石垣の平らな面に向かってボールを打つんだ。狙えなければ走らないといけないからね。

山岸二郎

そうやっているうちに小さい的でも狙えるようになるんだよ。

その時は凄いね!と言うしか無かったのですが、今、指導者の立場でこの話を振り返ると、いかに集中するポイントの細かさや、工夫する事の大切さ、継続してやり切る事の大切さがわかります。

オールドマスターズの試合も見に行きましたが、イベントが75歳以上ダブルス、80歳以上ダブルス、90歳以上シングルスと全て決勝戦の1試合でした。

中でも、当時10歳だった僕は大叔父よりも、90歳以上シングルに凄く興味があり、大叔父そっちのけで観戦しました。

走れるのか?体力は持つのか?
怪我しないかな?などと考えていました。

さすが昔の名選手同士の試合でした。集中力が素晴らしく、一糸乱れずのセンターへのきれいなラリーが20球以上続き、少し逸れるとポイントが決まる感じでした。
前日に大叔父から、針の穴を通す様な話を聞いていたので、なるほど!と、納得していました。
マスターズの選手がゲームを楽しそうにやっている姿を見て、僕もあと80年もテニスが出来ると思うと凄く嬉しく思いました。

代表 西村信人